ことばパティオ

第22回 乾いた言葉と戯れながら、言葉の香りを追憶する


影浦 峡(かげうら きょう)
東京大学大学院教育学研究科図書館情報学研究室。専門は言語メディア論、学習情報基盤論。趣味はキノコ採り。2007年、NPO法人 森林サポーターズ・クラブ主催「埼玉県民の森きのこ観察会」きのこクイズ・トップ賞受賞。 Webサイト:公式サイト    Webサイト:「みんなの翻訳



   中学生のころ、辞書を集めるのが趣味でした。中学生ですから、集めた辞書は100冊にも届かなかったと記憶していますが、夜寝る前にベッドに持ち込む辞書を選ぶのは深い喜びの瞬間でした。

   お気に入りのひとつは、上田萬年著の分厚い辞書『大字典』(講談社)や『新クラウン英語熟語辞典』(三省堂)で、少しあとでは、アマニ油の匂いがしたできたてほやほやの『クラウン仏和辞典』(三省堂)も気に入っていました。

   読んだことのほとんどは忘れてしまいましたが、深く感動したためにいまだに覚えているものもあります。とりわけ鮮明に覚えているもののひとつは、『大字典』に収録されていた「糞汁(ふんじふ)」。

   語義は簡素に「くそのしる」(この部分、ゴギワカンソニ/クソノシル、と七五調リズムで読んでください)。辞書学をかじったり、定義論を勉強した人はもしかすると、それは定義ではない、単なる言い換えに過ぎない、「腹痛」とは「腹が痛いこと」とか「翻訳」とは「翻り訳すこと」とか「言語学」とは「言語の学なり」と言ってもまったく語義説明にはなっていない、と言うかも知れません。

   けれども、この「糞汁」そして「ふんじふ」という、既にして周囲に匂いを漂わせている見出しに付けられた「くそのしる」という簡素極まりない語義説明が、当時10代前半の多感な読み手に、なんと強烈に言葉の生々しい匂いを、そして言葉の神秘的な質感を、既にそれらをほとんど触知できなくなっていたがゆえの胸をつく懐かしさとともに思い知らせたことか。

   紙上の黒い染みに過ぎないその言葉が突然、生命を宿し、匂いを立てながら立ち現れてきた、そのような言葉の現れの最後の衝撃を、あるいはその追憶を前にしたとき、先端の定義論にもとづく『大字典』への語義批判があまりに矮小なものであることはどうしようもなく明らかではないでしょうか。

   それはまた転回点の追憶でもあります。まさにそのころから、眠気で目を開けていられなくなって『大字典』を閉じたあと、言葉から立ち昇る匂いをなまなましく身に感じつつ眠りに落ちるのではなく、いわばモノとしての言葉が頭の中で増殖し、ぐるぐる回りながら眠りに落ちるようになっていったのです(しかしそれは「糞汁」が漂わせる香りとともに眠りにつくことを私がどこかで拒否したからかも知れません)。「糞汁」→「ふんじふ」→「くそ」「の」「しる」→……。

   なまなましく匂いを放ち、彩りを持って立ち上がる「生きた存在」から、飛び出て踊り出す乾いた「モノ」としての言葉へ。この転換は、一般に意味を持つものと思われているらしい言葉の、その一般的な意味での「意味」なるものを平然と無視したものでもありました。

   興味深いことに、人は意味のわからない言葉に出会うと辞書を引きます。けれども、辞書には「意味」などいささかも書かれておらず、「言葉」が書かれているだけです。特権的に意味を説明していると思われている辞書が、実は、言葉に意味などはないこと、存在するのはせいぜいローマン・ヤーコブソン(1896―1982)がパースを借りて述べたところの「意味とは無限の記号変換である」という意味の本質、すなわち、意味の原理的不在でしかないことを隠しようもないまでに露呈してしまっていること。先ほどの転回点より以後に私が暮らした言語世界は徹頭徹尾、乾いたモノとしての記号が露呈し配置される、物理的な世界となりました。

   なまなましく立ちのぼる言葉の匂いと色彩を失って以来、その代償としてなのか、かさかさと乾いたモノとしての言葉に深い愛着を抱いています。趣味のひとつとして翻訳をおこない、少なからぬ訳書を別名で公刊しているのも、翻訳が「意味」などというものとはまったく無縁の、ある特別な記号配置の「変換」だからであって、その心地よさに酔いしれることができるためであります。

   いっぽう辞書はと言えば、最近、昔ほどのときめきを失いつつも、辞書を開いたときに言葉たちが乾いたモノとしてではなく、なまなましい匂いと色彩そのものとして騒ぎ出す日を夢見ながら、ときおり、密かに、祈るようにページを開いています。いつの日かまた言葉が十分に発酵し生き生きとした輝ける生物としてその姿を表すことへの期待に胸を震わせながら……。

   大人になる前に私たちが言葉に感じていた、肌触りと、香りと、色合いが、依然としてまごうかたなき現実としてあるはずなのに、その存在を触知するすべを奪われた私たちの無力感や限りなき懐かしさが、いつの日か、言葉がそのなまなましく禍々しい姿を再び現してくれる折り、幸せな充足を見る。そんな日を希求する私たちの権利を、たとえ幻想としてであれ、担保できる存在と言えばもはや辞書しか残されていないのだから。

   電子編纂の時代、電子辞書の時代、オンラインで大規模な言語データが手に入る時代になって、少なからず人が「成長する辞書」に期待しているようです。けれども、個人的にはリアルタイムの「成長」はテクストたる言語表現にまかせておけばよろしい。辞書の面目はむしろ、閉ざされた世界で知らぬ間に言葉が、辞書が、その世界が「発酵する」ことにあるのだから。

   かくしてあらゆる辞書製作者と利用者の皆さんへ、辞書はふたを閉じて発酵させてください。そして英日のオンライン文書翻訳には、私たちが開発した「みんなの翻訳」をお使いいただけると幸いです。「みんなの翻訳」は、http://trans-aid.jp/へ!
(2009年5月1日)